「菜乃ちゃん、おはよっ」
すでにほとんどの生徒が席に着いた、そんな朝の教室。そこで、そう挨拶された少女は、自らの席に座ったまま、顔を上げた。
「あっ、おはよう。睦美ちゃん」
菜乃と呼ばれた少女は、親しげにそう答えると、言葉を続ける。
「もう、予鈴鳴っちゃったよ。遅刻ぎりぎりじゃない」
「へへっ。ちょっとまだ、どれぐらい掛かるのかが読み切れてなくって……。ずいぶんと時間が掛かるようになっちゃったからさ」
少し息を切らしながらも、そう答えた睦美は、紺のシングルイートンに白い丸襟のブラウス、そして紺の車襞スカートを身に着けている。そして、それ自体は学校指定の制服であり、菜乃も同じ。
だが、指定品の横長の通学バッグを背負ったままであり、さらには、あごひもをしっかりと締めたヘルメットをも被ったままだ。
それは、スタイリッシュな、スポーツタイプのものではなかった。昔ながらの、学用としては非常にオーソドックスな白いもの。当然のように、快適さを増すための通風口など空いていない。
そんな自転車用ヘルメットの前面部分には、「中」という文字が配された校章が記されていた。そしてさらに、ほぼ一周するように赤い反射テープが貼られ、後部並びに左右には橙色の反射板が配されている。そのうえで、右脇にシール製の名札までもが貼られていた。それらも相まって、まだほぼ新品の、光り輝く白いそれは、より一層、垢抜けないものとなっていた。
「睦美ちゃん、自転車通学になっちゃったもんね」
「そうだよ。しかもさ、自転車だと、国道の橋まで行かなきゃいけないから、ぐるっと遠回りしてくることになっちゃうんだよ。小学校の時みたいに、いつもの橋を渡っちゃえば、すぐだっていうのにさ。家の住所が川向こうだからってだけで、自転車通学になっちゃうんだから……、ホント、バカみたい」
そう言って嘆く睦美を、菜乃は少し苦笑いしながら見ていた。そして、こういうあけすけな物言いは、非常に彼女らしいとも思った。
もし自分だったら、学校が決めたことなのだからと、すんなりと受け入れてしまうだろう。そのことは、菜乃自身にもわかっていた。昔から、なにかの規則とか、決まり事といったものを破るといったことが、どうも苦手だった。真面目というのとも少し違う、それは彼女の本分ともいうべき部分だったかもしれない。
そんな二人は、昔から親しかった。幼なじみと言ってもよい。幼稚園の頃からの知り合いで、なぜか非常に気があった。
クラスまでがずっと同じだったわけではないが、小学校も一緒だった。しかも、家もそんなに離れていないため、放課後もよく一緒に遊んだものだ。二人の家の間には、大きな川が流れていたが、先ほど睦美の話に出てきた「いつもの橋」、つまり歩行者専用橋を渡れば、ほんの数分の距離だったためもある。
「でも、自転車の方が楽じゃない。歩いてくるのだって、大変だよ?」
「そうだけどさ、距離はものすごく長くなってるんだよ。しかも、向こう岸を延々国道まで走って、橋を渡ったら、こっち岸を戻ってくることになるなんて……。ホント、意味ないじゃん」
そこでいったん言葉を切った睦美は、少し寂しげな表情で続けた。
「……それに、一緒に、学校来られなくなっちゃったんだもん。菜乃ちゃんは、川のこっちに住んでるから、徒歩通学なんだから……。私、つまんないよ」
その点は、菜乃としても寂しく思ってはいた。だが、睦美も同じように思ってくれていることに、嬉しさも感じた。
「私もだよ、睦美ちゃん」
その言葉に、睦美も嬉しく思ったのだろう。その表情に笑みが浮かぶ。だが、不意になにかを思い出したかのように、話題を転じた。
「それはそうと、菜乃ちゃん。昨日は大丈夫だった? いきなり、学校休んじゃうから、びっくりしちゃった」
「ああ、それね……」
それは、不思議な出来事だった。直前まで、まったく異常などなかったにもかかわらず、玄関を出ようとした途端、激しい頭痛に襲われたのだ。だが、熱などがあるわけでもなく、体がだるいとか、吐き気がするなどの症状もなかった。
それでも、大事を取って休むことにしたのだが、そう決まってからは、そんな痛みは嘘のように消えてしまった。だが、授業途中からでも学校に行こうかと思うと、その途端、猛烈な痛みが再発する。それは、見えない力が、菜乃のことを学校へ行かせまいとしている、そんなふうにも思えるものだった。
「お見舞いに行こうかとも思ったけど、邪魔かなとも思って……」
「あぁ、たいしたことなかったから。ちょっと、具合が悪かっただけで……」
そして、少しの間を置いて続けた。
「でも、ありがとう。そう思ってくれただけでも嬉しいよ、睦美ちゃん」
「当然でしょ。菜乃ちゃんは、とっても大事なお友達なんだから」
そんな会話に、二人してにっこりと微笑んだその時、本鈴が鳴り渡る。そしてその直後、教室の前側の扉が開かれ、人影が現れた。
「こらっ、植野さん」
教室に、若い女性の声が響いた。怒鳴ったというわけではないが、それでもよく通る、凜とした声だ。
「ヘルメットを被って、鞄も背負ったままで、なにしてるの? はやく自分の席に着かないと、遅刻にしちゃうわよ?」
「ごめんなさぁい、先生」
教室中に、小さな笑いが広がっていたが、睦美はあまり気にしていない様子だ。そして、教壇の方へ振り向くと、悪びれる様子もなくそう答えた。本気で遅刻にされることはないという気持ちが、どこかにあったためだろう。
それでも、ふたたび菜乃の方へと顔を向けた睦美は、素早く、こう告げた。
「それと、私が係になったから……」
そして、「あとでね」という言葉を残して、ナイロン製の背負いバッグを降ろしつつ、自分の席へと向かった。
「みなさんも、入学してから、もう一週間になるんですよ。いつまでも、小学生と同じ気分でいないで、中学生としての自覚を持って行動しなくては、ダメですよ」
クラスメイトとともに「はい」と答えた菜乃は、そう諭した女性のことを、好意を持って見ていた。
彼女は、菜乃たちの学級担任、杉山優花だった。まだ若く、年齢はおそらく二十代中頃から、いっても後半ぐらい。どこかほんわかとした、優しさを感じさせる彼女は、教師というよりは、どこか「お姉さん」といった印象を、菜乃たちに与えていた。
もっともそれは、教師としては、どこか迫力不足ということでもあったのだが、それ以上に、彼女の醸し出す、優しげで理知的な、そして淑やかな雰囲気が、男子生徒にも女子生徒にも、優花の言うことを聞こうという気を起こさせるのだった。
「それじゃ、まずは出席をとるけど……」
だが、そんな優花の、温かみのある声を聞きながら、菜乃はあることを考えていた。
先ほど睦美が言ったことは、一体なんだったのか。「係」と言っていたが、どんな「係」なのか。そしてそれが、自分とどういう関係があるのか。そんな疑問に、菜乃が心を囚われていたその時……。
不意に、背中側に、なにかの感触を抱いた。
ハッとした菜乃は、後ろの席のクラスメイトが、自分の背中をつついているのだということに気づいた。それとともに、自分が呼ばれているのだということにも。
「……御手洗さん、聞いてますか?」
「は、はい!」
返事とともに、思わず立ち上がってしまった菜乃のことを、爆笑が包み込む。
「立ち上がらなくてもいいわ、御手洗さん」
そんな優花の声に、スゴスゴといった感じで席へと着いた菜乃は、耳まで真っ赤になっていた。
「さっきも言ったけど、もう中学生なんですからね。あんまり、ボーッとしていたら、ダメですよ?」
「は、はい。すみません……」
か細い声でそう答えた菜乃だったが、その耳には、クスクスといった笑い声が、届いている。
それは、彼女が注意散漫となり、優花の点呼に答えなかったこと。さらには、気づいた瞬間に思わず立ち上がってしまったことを笑っているのだろうということは、菜乃としてもわかっていた。
だが、自分の名前を呼ばれた直後に聞こえた、そんな笑い声は、優花にあることを思い出させずにはいられない。
御手洗――。
それが菜乃の名字だった。そしてそれを、彼女はどうしても好きになれなかった。
なぜならば、それは、別の読み方ができ、そのことを知った同級生たちに、からかわれたことは、小学生時代には、一度のことではなかったからだ。
それでも、ある出来事のため、面と向かって言われることもなくなってはいた。だがやはり、いやな記憶と結びついてしまうのだ。
「わかればいいのよ、御手洗さん」
恥ずかしそうに俯いている菜乃に対して、優花は優しげにそう言った。もっとも、少女の心情にまでは気づいていなかったであろうが。
「それはそうと、御手洗さん……」
そして、続けて問いかける。
「昨日はお休みしてしまったけど、今日はもう大丈夫かしら?」
「は、はい……」
「そう。それは、よかったわ。だったら、予定通りに、今日からで大丈夫ね」
優花の言葉に、菜乃は意味がわからない。
だが、そのことに触れるでもなく、点呼は続く。そして、全員分をとり終えると、優花は生徒たちに向き合い、話を始めた。
「一時間目は、先生が担当する英語の授業ですが、今日はその代わりに、ロングホームルームを行います」
その言葉に、教室が少しざわついた。授業が潰れることを嬉しいと思った生徒が多かったためだろう。
だが、そんな期待を、次の言葉が打ち消す。
「代わりに、英語の授業は、来週のロングホームルームの時間に振り返ることとします」
見えない落胆が、教室を覆っていったが、優花は気にせずに話を続ける。
「このまま、朝のホームルームから、休み時間をとらないで、ロングホームルームを行ってしまいますが……」
そこまで言って、教師はいったん言葉を切った。そして、顔をある方向へ向けると、こう呼びかけた。
「御手洗さん」
「は、はい!」
ふたたび名前を呼ばれた菜乃は、困惑を隠せない。
「前に出てきてくれるかしら?」
言葉としては依頼形だが、当然ながらに拒否などできない。
教壇に立つ教師の元へと歩み寄った菜乃は、それでも、呼ばれた意味がわからない。先ほどの件で、改めて叱責を受けるのかとも考えたが、優花がそんな陰湿なことをするとも思えない。それに、その口調は、穏やかで、優しげなものだったのだ。
「御手洗さん、みんなの方を向いて?」
その言葉に、菜乃はクラスメイトたちの方を向いた。当然ながら、その視線が、一身に集まっていることに、気づかずにはいられない。そして、元来、注目を浴びるようなことが苦手だった彼女は、それだけで、身がすくんでしまう。
それでも、両腕を脇に当てたまま、緊張と戦いながら立っていた菜乃だったが、優花はなにも話さない。その代わり、黒板へと向き合うと、なにかを書き始めた。
それに背を向けている菜乃からは、その内容はわからない。だが、すぐに書き終えたとみえて、少女の元へと歩み寄る。そして、生徒たちに語りかけた。
「みんなも知ってのとおり、昨日のロングホームルームで、クラスのベンキに決まった、御手洗さんです。これから一年間、みんなのベンキになってくれる御手洗さんに、大きな拍手をしましょう」
そう告げる女性教師の口調は、いつもと変わらない、なにげないものでしかなかった。