御手洗さんはクラスの便器

第二話 便器係と便器

 クラスメイトたちの拍手を受けながら、はそれでも、状況をつかめずにいた。自分がなにかに決まった……。ゆうがそう言ったのはたしかだが、その内容がよくわからない。

 とはいえ、単語そのものが聞こえなかったわけではない。それ自体は、菜乃にもはっきりと聞き取れていた。そして、その発音を聞いて、真っ先に連想された単語も、あるにはあった。だが、それは、今の状況には、あまりにも似つかわしくない言葉のように思えていたのだ。

「ほら、らいさん……」

 だが、そんな菜乃の戸惑いに気づいていないのか、優花はささやく。

「みんなが拍手してくれてるのよ。ちゃんと、言わないと。『よろしくお願いします』って……」

 優しく促された菜乃は、やはり当惑したままだ。だが、それでも、その言葉を発してしまう。それは、深い考えから出たものではない。その性格的に、教師の言葉を拒否することができなかった、ただそれだけのことだ。

「よ、よろしく……、お願いします……」

 その挨拶を受け、より一層強くなる拍手を聞きながら、思わずペコリといった感じで頭までさげてしまった菜乃。だが、事態が飲み込めないことに変わりはない。なにが「よろしく」なのか、皆目見当がつかなかった。

 しかし、それでもなお、誰も少女の疑問に答えてはくれない。それは、菜乃のことを微笑ましげに見ている、優花も同様のようだ。

「それじゃあ……」

 そんな教師の声に、教室が静まりかえった。
 
「次は、係の人ね。えっと、男の子は……、とうくんだったわね」

 記憶をたどりながらそう告げた優花の声に、一人の男子が返事をしながら立ち上がった。

 その生徒は、オーソドックスながら、今となっては逆に主流ではなくなってしまったかもしれない、黒の詰め襟の学生服を着ていた。他の男子生徒も同じものを着ていることから、それがこの学校の指定制服であることは明らかだ。

「それじゃあ、前に出てきて」

 教壇へとやって来た彼は、クラスメイトの方へ向き返った。それは、菜乃の横……、とはいえ、二メートルほど離れた場所だ。

 そんな少年はあまり大柄ではなく、少女と同じぐらいの体格でしかなかった。とはいえ、それも致し方なかったのかもしれない。第二次性徴の初期段階では、女子の成長が、男子のそれを追い越してしまうことはよくあるからだ。

 だが、その男子生徒を見て、菜乃は心がざわめいた。心の奥底がキュンとするような、そんな感傷に囚われたためだ。

 武藤と呼ばれたその少年と、菜乃が同じクラスになるのは、これが初めてではなかった。それどころか、過去四年間、クラスメイトとして過ごしてきた。そして、そんな二人は、ただ同じクラスに所属しているという以上に、親しい間柄でもあった。

 あれは、もう三年以上も前のこと。菜乃の名字は、別の読み方ができる……。そのことを、誰かから教えてもらった、一人のクラスメイトがいた。そして、その事実は、瞬く間にクラス中へと広がっていった。

 それは、言う側からすれば、それほど深刻ではない、からかいに過ぎなかったのだろう。まだまだ子供なだけに、それも仕方なかったのかもしれない。だが、言われる菜乃からすれば話は違ってくる。それは、いじめを受けているに他ならなかったからだ。

 そんなときに、菜乃のことをかばってくれたのが、この少年だった。屹然と、「そんなことはやめろ」と言い切った彼は、少女からすれば救世主と同じだった。

 とはいえ、かばった側が、同じようにいじめられるという展開もよくある。だが、結果として、それはなかった。少年は勉強もでき、スポーツもでき、そして何より「かっこいい」と言われる容姿をしていたためだ。そんな、クラスカースト上位にいる彼をいじめる者はなく、そんな彼からかばわれた菜乃のことを、表だって揶揄する声も聞かれなくなった。

 それ以来、二人は急速に親しくなっていった。菜乃は、少年のことを「しようくん」と下の名前で呼び、少年もまた、少女のことを「菜乃ちゃん」と呼ぶようになっていた。そして、一緒に遊んだり、勉強したりすることも多くなった。

 だがそれは、思春期を迎える前、子供時代の無邪気さが成したことであった。いつの頃からか、一緒にいるところを見られるのが、どこか気恥ずかしくなっていく。そしていつしか、その呼び方も、「武藤くん」、そして「御手洗」へと変わっていた。

 だが、翔太のことを考えると、胸の奥底に、不思議な、よくわからない感情が湧いてくる。そのことには、菜乃も気づいていた。

 そんな菜乃は、無意識のうちに、翔太のことを見つめていた。だが、彼はなにも言わない。それどころか、少女の方へと振り向こうともしない。もっとも、気のない素振りを見せつつも、実際には、少女のことが気になっているのだということは、相対しているクラスメイトからは一目瞭然であったのだが。

 いずれにせよ、一緒に教壇へと呼ばれたからには、自分がなにかに決まったことに、翔太は関係しているのだろう。それは、菜乃にもわかる。だが、なにが行われようとしているのか、それはわからない。

 と同時に、優花の発したある単語が、菜乃の心に引っかかった。「係」というその単語は、今日聞いたことがある……。

 そして、次の言葉が、そんな菜乃の記憶が正しいことを証明した。

「女の子は……、うえさんね」

 そんな呼びかけに、明るく返事したむつは、立ち上がる。そして、翔太の横までやってくると、同じようにみんなの方へと向き返った。

 だが、翔太と違い、菜乃の方へ顔だけ向けると、右手を軽く振ってきた。そして、小さくなにかをささやいたが、おそらくは「よろしく」とでも言ったのだろう。聞き取れはしなかったが、今までの付き合いから、なんとなくそのことはわかる。

 その間、優花はふたたび、黒板になにかを書いているようだった。菜乃には、チョークが擦れるような音が聞こえる。だが、それもすぐに終わってしまった。教師は改めて少女のかたわらへとやってくると、生徒たちに向かってこう言った。

「ベンキ係に選ばれた、武藤くんと植野さんです。二人は、みんなが使うことになる……」

 ふたたび、あの単語が出てきた。それをはっきりと聞き取ることのできた菜乃だったが、その意味するところがわからない。いや、その音から思い当たる単語はひとつしかないのだが、それはさすがに関係ないだろうと考えていた。

「あ、あの、先生……」

 優花の話を遮るように、菜乃はそう呼びかけた。普段なら、教師の話を遮るようなことはしない。それは、少女の性格に反していた。だが、自分のよくわからないうちに、話がどんどん先へと進んでしまう状況に、さすがに不安が大きくなっていたのだ。

「す、すみません……。あの……、よく、わからないんですけど……」

 そんな菜乃の言葉に、優花は少しキョトンとした表情を見せた。

「わからないって……。昨日、決まったでしょ? 御手洗さんが……」

 そんな声を、睦美の声が遮った。彼女の性格からして、おそらくはなんの躊躇もなかっただろう。

「先生。菜乃ちゃん、知らないんだってば。ほら、昨日、休んでた時に決まったからさ」

 その言葉に、優花も気がついたようだ。そして、そのことに思い至らなかった自分を少し恥じたのか、照れたような笑みを見せながら、つぶやいた。

「あら、やだ……」

 そして、菜乃の方へ向き直ると、こう続けた。

「ごめんなさい、御手洗さん。先生、うっかりしちゃって……。ホント、やぁねぇ……」

 その口調、そしてしぐさは、年下の少女から見ても、かわいらしいと感じられるものだった。

「昨日のロングホームルームで、係とか委員とかを決めたのよ。でも、御手洗さんは、お休みしてたでしょ? しかたないから、御手洗さんの役割は、みんなで決めさせてもらったの」

 その言葉に、菜乃はようやく納得がいった。先ほどから「決まった」と言っていたのは、そのことだったのだ。

 しかし、それがどんなものなのか、それは依然としてわからない。

「わかったかしら?」

 そんな問いにも、相変わらず黙ったままの菜乃のことを、優花は不思議そうに見つめた。

「御手洗さん、わからない?」

「いえ……、係とかを決めたということはわかりました。でも……」

「でも?」

「あの……、わたしは、なにに……、決まったんですか?」

 そんな菜乃の問いに、優花は少し怪訝な表情をする。
 
「あら、聞こえなかったのかしら?」

「い、いえ……。聞こえたことは、聞こえたんですけど……」

「それじゃあ、御手洗さんには、なんて聞こえたの?」

 そんな優花の問いに、菜乃はなんと答えればよいのかわからなかった。というよりも、聞こえたそのとおりに言ってしまってもよいものか、判断がつきかねたのだ。とはいえ、こうしていても埒があきそうにない。

「あ、あの……」

「うん?」

「あの……、ベ、ベンキって……、言ったような……」

 口ごもりがちな、そんな菜乃の言葉を聞いて、優花はにっこりと微笑む。

「あら、ちゃんとわかってるじゃないの」

「で、でも……」

 それでも煮え切らない態度の菜乃。だが、意を決して問いかけた。

「それって……、どういう意味ですか?」

「あら、わからないの?」

 そんな優花の言葉に、菜乃は黙って頷いた。

「そっかぁ。たしかに、音だけだと、わかりづらいかもしれないわね。でも、文字で見たら、御手洗さんにも、すぐにわかると思うわ」

 そして、黒板の方へ振り返ると、ある箇所を指さした。それは、翔太と睦美の後方だったが、その位置からして、優花があとで書いた方の文字であろうことは、菜乃にもわかった。

 そして、そこに書かれている文字を見て、少女は驚きを隠せなかった。

 黒板に大きく書かれた、「便器係」という白い文字。そしてその左には「武藤翔太」、「植野睦美」という名前も記されていた。

 たしかに、優花の言うとおり。文字で見れば、一目瞭然。それは、菜乃が思い至りながらも、よもやそうではあるまいと思っていた、まさにその単語だった。

 思わず絶句してしまっている菜乃を見て、優花が穏やかに話しかけた。

「これでわかったでしょ?」

「で、でも……、便器って……」

 思わず、そう口にしてしまった菜乃だったが、優花はふたたび表情を変えた。それは、おかしなことを言うと思っている、そんなものだった。

「まさか、便器を知らないわけじゃないでしょ? 便器って言ったら、オシッコやウンチをするモノじゃない」

 菜乃としては、そういうことを聞きたかったわけではない。だが、優花のその答えによって、黒板に書かれた便器という単語は、まさにその意味に違いないのだということが、改めてはっきりとした。

「そ、それは、わかるけど……。でも、便器係って……?」

「ああ、そういうことね。便器係っていうのは、便器のお世話をする係のことよ。便器の準備をしたり、便器の後片付けをしたり、便器の掃除をしたり……」

 そこまで言って、優花はあることに思い至ったようだ。

「もしかして、御手洗さん。なにか勘違いしちゃったのかしら。別に、便器係が便器って訳じゃないわ。それは、給食係が給食じゃないのと同じよ」

 当然でしょ、といった感じでそう答えた優花を見つめながら、菜乃は深く頷いた。ようやく、事の真相が明らかになったように思われたからだ。

 それでも、優花の説明……、というよりも、全体的な言い方は、どこか腑に落ちない。その上、なにかおかしく思える部分もあるにはあった。それでも菜乃は、便器係というのは、結局のところは、トイレ掃除をする係なのだと理解したのだ。

 とはいえ、「便器係」という名称そのものは、どうなのだろうとは思った。だが、そうとわかれば、たかが係の名前でしかないのも、また事実だ。

「それじゃ、私は便器係なんですね?」

 菜乃は、そうたずねた。もちろん、肯定の返答があるものと思いながら。

 だが、優花の答えは、そんな少女の期待を裏切った。

「あら、御手洗さんは便器係じゃないわ……」

 そして、優花は黒板へと視線を動かす。先ほどとは別の場所だ。そして、それにつられて振り返った菜乃は、そこに書かれた文字を見て、言葉を失った。

 大きく書かれた「便器」という白い文字。そして、その横に同じ大きさで書かれた「御手洗菜乃」という名前……。

「御手洗さんは便器なのよ」

 そんな優花の声は、日頃とまったく変わらぬ、穏やかで、優しげなものだった。そしてそれは、ごくごく当たり前のことを話している、そんな口調でしかなかった。