「これぐらいで、ホームルームを終わりにしたいんだけど……。他に何か、連絡事項のある人、いるかしら?」
まだ残暑の厳しい九月一日。始業式を迎えた、とある公立中学校。その一年二組の教室で、そう問いかけたのは、このクラスの学級担任、木内美香だった。
とはいえ、これは、あくまで形式的なこと。ここで生徒側から連絡事項があることは、ほぼなかった。本当に生徒に伝えるべき事柄があれば、それは彼女が把握しており、自分の口から伝えるからだ。
そう思っていた美香だったが、一人の生徒が不意に手を上げる姿が目に入った。
「あの、先生。連絡事項があるので、前で発表してもいいですか?」
それは、クラスで女子の学級委員を務めている山村純枝だった。
少し意外に思った美香だったが、もちろん立場上、断ることもできない。
彼女の同意を受け、純枝は立ち上がるかに思われた。だが、その前に、右手を床の方に伸ばすと、傍らに置いてあったある物を手に取る。それは、本来は掃除の時に使うべき、ブリキのバケツだった。側面には、美香たちの学年クラスが太字のフェルトペンで書かれている。
そのバケツの持ち手を右手で持ったまま、純枝は立ち上がると、美香の傍らへと歩を進める。そして、反転すると、クラスの生徒たちと向き合った。
「山村さん。バケツなんか持ってきて、どうしたの……?」
純枝の行動に、美香は戸惑わずにはいられない。わざわざバケツを持ち出して、どんな連絡事項があるというのだろうか。
だが、そんな美香の戸惑いに対して、純枝は反応しない。
一瞬、自分のことを無視しているのかと、美香は思った。だが、どうやらそうではないらしい。純枝は、何か他に気になることがあるのか、どこか心ここにあらずといった感じだった。その上、緊張しているのか、バケツを持った手を小刻みに震わせている。丸みを帯びた愛らしい頬も、少し朱を帯びているように見える。
そのまま三十秒近くも黙り込んでいた純枝だったが、ついに意を決したのか、軽く深呼吸をすると、教室の同級生たちに連絡事項を伝え始めた。
「学級委員からのお知らせです。今日は防災の日です。それにあわせて、これから一週間、避難訓練や消火訓練など、いろいろな訓練が予定されています」
そこで、純枝は一度言葉を切る。緊張のせいなのか、唾を飲み込み、唇を一舐めすると、話を続ける。
「それらの予定は、すでにプリントで配られていますが、新たな訓練が一つ追加されたので、お知らせします。大きな災害が起こると、ガスや水道などの、社会的インフラといわれる物が使えなくなる場合があります。当然、水道が使えなくなれば、おトイレに水を流すこともできません。つまり、おトイレが使えなくなるということです」
純枝は、学級委員として、しっかりとした口調で、平然と話をしているように感じられる。だが、実際には、その心中は穏やかではないことは、少女の身体の動きや顔を見ればわかる。今や小刻みな震えは全身に広がり、頬を染める赤い色はその度合いを増していたからだ。
「その場合でも、男の子は、た、立ちションや……、の……、の、野糞……を、しても、いいのでしょうが……」
純枝から発せられたそれらの言葉を聞いて、美香は思わず耳を疑った。よもや、思春期を迎えた、最も潔癖な年頃の少女の口から、立ちションや野糞などという下品な言葉が出てくるとは思いもよらなかったからだ。
もちろん、理由もなく使われた言葉ではなかった。だが、それでも、年頃の女の子が、教室という公の場で、多くの同級生を相手に発する言葉としては、あまりにも恥ずかしい。実際、純枝自身もそう感じていることは、口籠もりがちな、たどたどしい言葉遣いからも見て取れる。
そんな、高まった羞恥のせいか、言葉が一瞬途切れた。だが、そんな湧き上がる恥じらいを押しのけるかのように、一度大きく深呼吸をすると、少女はさらに話を続ける。
「わ、私たち、女の子は、た、立ちションはできませんし、の、野糞……、のような、はしたないことを、するわけにもいきません……。ですから、この一週間を利用して、そのような場合、つまりおトイレが使えない場合を想定した訓練を、女の子には追加で行うこととなりました。女の子は、災害のために水が使えないという想定で、学校のおトイレの使用が全面的に禁止になります。その代わりに……」
そこで、またも一瞬、言葉が途切れる。今や、純枝の顔は、真っ赤に染まっている。
「その代わりに、女の子たちは全員、おトイレではなく、この……、ば、バケツの中に、用を足すようにしてください」
とうとう連絡事項を言い切ることができたのだろう。教室中の生徒たちによく見えるようにと、少女はブリキのバケツを目の前で高く掲げた。