今でもはっきりと覚えています。それは、不思議な、そして淫靡な体験でした。
具体的な年までは書きませんが、世間では「ミレニアム」という言葉が流行り始めた、そんな前世紀の終わり頃のことです。
高校二年生を迎える直前の春休みに、私たち家族は、泊まりがけで出かけました。父方の本家で行われる法事のためです。
昔ながらのイメージとしては、そのような場合、本家に泊めてもらうものと思うかもしれません。大広間があり、そこに親族が何家族も寝るような感じでしょうか。ですが、その時には、父の兄夫婦へと既に代替わりしており、本家の建物も、大広間のあるような古い日本家屋から、個室を中心とした今風の家へと建て替えられていました。それでも、客間はあったようですが、お嫁さんに迷惑をかけたくなかったのでしょう。父は本家への宿泊を固辞したようです。
そんないきさつから、親族の中で唯一遠方に暮らす私たち家族は、近隣の温泉宿に泊まることとなり、そのように手はずが整えられていました。
その宿は、本当に山の奥にありました。温泉街などにはなっておらず、ポツンと一軒だけある建物は、築数十年は経っているであろう鉄筋コンクリート造りで、趣というものがまったくありません。そのため、「鄙びた」というよりは、「寂れた」という言葉の方がしっくりとくる、そんな場所でした。
そんな寂しい宿に、前日入りした私たちでしたが、父は同窓生たちと飲み会があると早々に出かけてしまい、母と私の二人だけが残されることとなったのです。
なにしろ、当時の私は、男子高校生です。そんな寂れた温泉宿にいても、面白いはずがありません。今でいうガラケーは持っていましたが、スマホなどない時代ですから、本当にやることがないのです。かろうじて、部屋には小さなテレビがありましたが、アナログ放送の当時、山奥深くにあるその場所では、ゴーストが激しすぎて見る気にもなれませんでした。
だからといって、部屋でゴロゴロしていても仕方ないと思ったのでしょう。もしくは、母に促されたのかもしれません。そのあたりは、今となっては定かではありませんが、夕食前に温泉に入ることにしたようです。
男湯の脱衣場は、それほど広くもなく、実に質素な作りでした。片方の壁に棚がいくつか設けられており、その各々には脱衣かごが入れられていましたが、そのどれもが使用されていません。しんと静まりかえった状況と合わせ、誰も浴場を使っていないのは明らかでした。
ですが、服を脱ぎ始めたところで、入口の扉がガラッと開かれました。そちらの方をチラリと見ると、恰幅のよい、浴衣姿の老人が入ってきたのがわかりました。
湯船を独り占めできると思っていた私は、少し残念に思いましたが、それは仕方ありません。軽く会釈をして、再び脱衣に取りかかろうとしたところで、入ってきたのは老人一人ではないことに気づきました。背後に、隠れるようにして、誰かが立っていたのです。
それは老人よりもはるかに小さな人物だということが、すぐにわかりました。その体型から、子供なのだろうということは推測できましたが、老人の浴衣にしがみつくようにして隠れているその姿は、はっきりとは見えません。
「君ひとりかのぉ?」
近づいてきた老人が、不意に話しかけてきました。
「は、はい……」
ドギマギしながらそう答える私に、その老人は優しげな笑みを浮かべていました。年齢に反した、屈強な体つきをしていましたが、その話し方と、表情の感じから、怖い人ではなさそうだということがわかり、少しホッとしたのを覚えています。
「一緒にいいかのぉ?」
うっとうしいという思いもありましたが、そこまで言われて断るのも変なものです。私は黙って頷きました。
「それと……、孫も一緒なんじゃが……」
そこまで言った彼は、背後に隠れている人物に声をかけました。
「ほれ、いつまで隠れておるのじゃ。ちゃんと、挨拶せんか」
その言葉に促され、隠れていた人物が姿を現しました。そして、その姿を見て、私は声をあげそうなほど、驚いてしまったのです。
「やれやれ……、ほんに、この子は恥ずかしがり屋じゃて。ほれ、挨拶せんか」
未だに、半分隠れるようにして、老人の浴衣にしがみついていたその子は、それでも挨拶をしてきました。
「瑠美です……。木下瑠美です……」
そう、その孫というのは女の子だったのです。しかも、幼女や、小学校低学年などの小さな子ではありません。
彼女は、黒くつややかな髪をおかっぱ頭にしており、その点はどこか幼さを感じさせました。ですが、その体躯からは、すでに第二次性徴が始まっており、思春期を迎えたであろう少女だということがわかりました。
私は、彼女のことを茫然と見つめていました。そんな視線に、少女は少し俯いたようになり、視線を逸らしたのがわかりました。
「儂は、修羅と言ってのぉ……」
老人はそう名乗ると、続けて尋ねてきました。
「君は、なんと言うのじゃね?」
「青葉……、青葉和人です」
慌てて答えた私に、老人は再び笑みを浮かべました。
「そうか、そうか。和人くんというのかね……」
そして、なぜか深く頷きながら、話を続けました。
「しばらくの間じゃが、孫と二人でご一緒させてもらうよ。よろしくのぉ……」
孫と二人で……。その言葉の意味するところは、高校生の頭でもわかりました。
「だ、だって……。あの、えっと……、女の子じゃ……?」
慌てて問い返しましたが、あまりに想定外のことに、要領を得ない話し方になってしまったのは仕方なかったのかもしれません。
ですが、そんな私の言葉に、老人はまったく落ち着き払った様子で、逆に問い返してきました。
「嫌かね?」
「い、嫌っていうか……。だって、いいんですか?」
相変わらず俯いている少女と、柔和な顔つきをした老人のことを交互に見ながら、私はそう尋ねました。今だから言えることかもしれませんが、言葉とは裏腹に、これから起こるであろうことに期待している自分がいたのかもしれません。
「ああ、そのことかね。十歳までは、男女一緒に入っても大丈夫なんじゃよ。きちんと条例で決まっていることでなぁ。なぁんも、おかしなことじゃあ、ないぞぉ」
具体的な年齢までは知りませんでしたが、その手の決まりがあるだろうということは、理解できました。もちろん、小さな女の子が父親と一緒に男湯に入っている場面を、見たことはありました。ですが、それは幼稚園ぐらい、いっても小学校入学直後ぐらいまででしょう。いくら決まりとしては許されているからといって、十歳の女の子が男湯に入るなどということは、当時でも、まずあり得ないことだったのではないでしょうか。
「十歳……?」
そう呟いた私は、再び少女のことを見つめてしまいました。老人の言った意味から考えれば、彼女は十歳ということになるはずです。ですが、年齢の割には、ずいぶんと大人びて見えました。
「十歳って、小学校……?」
「今度、六年生になるんじゃよ。なぁ、瑠美?」
そんな老人の言葉に、少女は小さいながらも、はっきりと頷きました。
「六年生?」
すぐに計算できたわけではありません。また、年齢と学年の対応を暗記していたわけでもありませんでした。それでも、十歳で小学校六年生ということに、感覚的に違和感を抱きました。十歳といえばもっと下の学年、逆に六年生といえばもっと上の年齢であったはずと、経験的に理解できていたからでしょう。
「ろ、六年生って……、十歳でしたっけ?」
「あぁ、言い方が悪かったのぉ。今は十歳じゃが、あと三日もすれば、十一歳じゃ。誕生日が来るでのぉ。だから、月が変わって、六年生になる頃には、もう十一歳になっているわけじゃよ」
「十一歳……」
十歳だとしてもあり得ないと思うのに、ほぼ十一歳といってもよい少女が、男湯に入ろうとしている。それも、身内であろう祖父とだけならまだしも、赤の他人である私もいるというのに……。それは、信じられないことでした。
「なぁ、和人くん……」
「は、はい……」
老人の急な呼びかけに、あたふたしている私がいました。
「ちょっとはやいが、祝ってやってくれんかのぉ。十一歳の誕生日おめでとう……、って」
その言葉を受け、私は再び少女のことを見据えました。先ほどまでとは異なり、顔をあげ、視線を向けている彼女がそこにはいました。そしてそれは、なにかを期待しているような、そんな表情にも見えたのです。
「じゅ、十一歳のお誕生日、おめでとう……。えっと……」
「瑠美です……」
なんと呼びかければいいのか迷っていることが、少女にはわかったのでしょう。小さい声ながら、それでも再び教えてくれました。
「あぁ……。る、瑠美……ちゃん? 十一歳のお誕生日、おめでとう……」
いきなり「ちゃん」付けで呼ぶのもどうかと思いましたが、呼び捨てにするのも変なものです。とりあえず「瑠美ちゃん」と呼んでみましたが、彼女はそれを受け入れてくれたようでした。
「ありがとう、和人お兄ちゃん……」
はにかみながらも、それでもそう答えてくれた彼女を見て、ホッとした自分がいました。また、一人っ子である自分が、「お兄ちゃん」と呼ばれたことに、どこかこそばゆい思いがしてもいました。
そして、そんなやりとりのおかげか、彼女も少し打ち解けてくれたように感じました。先ほどまでとは異なり、もはや祖父の浴衣をつかんでもいなければ、彼の後ろに隠れてもいませんでした。恥ずかしそうな感じは同じなのですが、それは、彼女の性格のせいだったのかもしれません。