それは、遡ること一週間前。
胸いっぱいの期待と、ほんのちょっぴりの不安を抱きながら、裕太がこの中学校に入学した、わずか数日後の出来事だった。
四月も中旬になっていたものの、その日は寒の戻りのせいで、底冷えがするほどに寒い一日だった。そのため、放課後に体育館で行われた学年集会が終わる頃には、裕太の体は芯から冷え切ってしまった。
それは、各部活による入部勧誘のために催されたものだったが、開始直後から、彼はある生理現象に悩まされてもいた。それは尿意だった。しかも、当然のごとく、一度芽生えてしまったその感覚は、強くなることはあっても、弱まることはない。
そして裕太は、その感覚に必死に抗い続けてしまう。冷静に考えれば、教師に申告をして、トイレへ行ってしまえばよかったのだが、ささやかなプライドというか、中学生にもなってそんな恥ずかしいことなどできないという変な意地が、それを妨げてしまったのだ。
そんな感じで、約五十分もの間尿意を堪え続けた彼は、集会終了とともに、体育館のトイレへと駆け込んだ。だが、その無慈悲な光景を見て、裕太は目の前が暗くなる思いだった。やはり、それは寒さのせいだったのだろう。まだ、終了から一、二分ほどしか経っていなかったにもかかわらず、大小合わせたすべての便器が埋まっており、さらには列までできていたのだ。
すぐさま、校舎にある別のトイレへと向かうことも考えた。だが、入学した直後ともあって、校内配置のすべてを把握しているわけではなかった裕太は、とっさにはどこが一番近いのかがわからない。だが、少なくとも渡り廊下を通って校舎へ移動しなければならない以上、最低でも二、三分はかかるに違いないことはわかる。
だが、すでにそんな余裕などないことは、裕太本人が一番よくわかっていた。ようやく尿意を解放できると、一瞬でも気を緩めたせいなのだろうか。もはや、我慢し続けることなど不可能だ。
裕太は、それでも駆け出していた。そして、体育館を飛び出たが、渡り廊下へは向かわない。上履きのまま、体育館の裏手へと急いだのだが、この際どこでもよいから、物陰で立ちションをしてしまおうと考えたためだ。
だが、裏手と思っていたその場所は、実際には裏手などではなかった。それは、校内を熟知していなかった裕太にとっては仕方のないことだったろう。しかし、体育館の裏側は、実際には、別の校舎の正面だったのだ。
これでは、その校舎から丸見えになってしまう。そのことに気がついた裕太は、途端に気が抜ける感じを抱く。そして、その場へとへたり込んでしまった。自らの股間に、ぬくもりを帯びた液体を感じながら……。
「君、どうしたの?」
不意に、そんな声が裕太にかけられた。
未だ茫然としたまま、それでも声のする方へと振り向いた彼は、一階の窓から数人の女子生徒たちが顔を覗かせていることに気がついた。
「あらあら、ひょっとして……?」
彼女たちも、その状況がなにを意味するのか気づいたのだろう。学生服のまま、地面へとへたり込んだ新入生の周りには、最近雨など降っていないにもかかわらず、水たまりが広がっているのだから。
やがて、女生徒たちは外へ出てくると、裕太のことを取り囲んだ。その中でも、一人の少女は目の前にしゃがみ込み、優しげに声をかけてくる。
「まぁ、おもらししちゃったのねぇ……」
その言葉に、改めて現実を突きつけられた裕太は、恥も外聞もなく、もはや泣き出してしまっていた。中学生にもなって、学校でおもらしをしてしまった、しかも、それを女の先輩たちに見られてしまったのだから。
「どうしましょう。先生に連絡した方が、いいかしら?」
相も変わらず、優しげな口調でそう問いかけるその女子生徒に対して、裕太は首を横に振ることしかできない。
「でも、このままってわけにも……」
それでも、心ここにあらずといった感じで、水たまりの中央でへたり込んだままの裕太に対して、ふたたび声がかけられる。
「ねぇ、このままここにいたら、他の人にも見られちゃうわよ。今だったら、私たちだけしか気づいてないから……。とりあえず、そこの教室に入っちゃいましょう? 部活中は、他の人たちは来ないはずだから……」
そう、優しく諭された裕太は、無言のまま頷いた。
「立てる?」
ふたたびそう問いかけた少女は、裕太に対して、手を差し伸べてきた。それに対して、どこか気弱になっていたためなのだろうか。彼はその手をつかんでしまった。
「ほら、行きましょう。そこの教室に入ってしまえば、誰にも見つからないから」
裕太が立ち上がったことを確認して、彼女はその手を引き始めた。そして、最初にいた教室へと向かう。さらには、そんな彼と彼女のことを、他の女子生徒たちが取り囲んだ。それは、他の生徒たちから見られないようにという配慮だったのかもしれないが、実際に見られていたとすれば、余計目立ってしまう行為だったことは、否定できないだろう。
いずれにせよ、教室へと入った裕太は、そこが一般の教室ではないことに気がついた。
「ここって……?」
「ここは、家庭科室よ」
「家庭科室……?」
「そう、家庭科室。そして、私たちは家庭科部なの」
「家庭科部……?」
「そうよ。そして、私は部長の友近真理江。よろしくね」
その言葉に、裕太は先ほど行われた集会のことを思い出していた。たしかに、目の前にいるこの少女は、壇上で話をしていた各部長たちの中の一人だった。だが、特に興味もなかったためだろう。家庭科部だったということは覚えていなかったが、それでも、かなりの美少女ともいえるその容姿が、彼の心にしっかりと刻み込まれていた。
「……だから、タオルとかもあるし、もちろん家庭科室だから、水道もあるわ。はやくパンツとズボンを脱いで、キレイにしちゃいましょ。ねっ?」
相も変わらず優しげな言葉。そんな様子に、裕太は思わず付き従ってしまう。
下級生男子がコクリと頷いたことを確認した真理江は、ふたたび微笑むと、話を続ける。
「まずは、ズボンと……、パンツを脱いじゃいましょう。それと、靴下と上履きも……、ダメみたいね。下は全部脱いじゃいましょうか?」
「で、でも……、着替えが……」
「誰かの……、なんだったら、私のジャージを貸してあげるわ。パンツぐらいだったら、家に帰るまで穿いてなくったって、別にいいでしょ? それとも……」
そこで、少しクスリと笑うと、おかしそうに続ける。
「私のショーツ、貸してあげましょうか?」
その問いに、裕太は顔を真っ赤にしながら、首を横に振った。
「ふふふ、冗談よ。それじゃあ、タオルね……。あと、そこの水道使っていいから、はやくキレイにして、着替えちゃいましょ?」
ふたたび優しげな笑みを見せる真理江に、裕太はすっかりと気を許していた。だが、さすがにこれは、言わないわけにはいかない。
「あの、脱ぐから……、その……」
「見ないで欲しい?」
その問いに、ふたたびコクリと頷く裕太。
「大丈夫よ。今は見ないであげるから……」
そして、一拍おいて、真理江は続けた。
「今は……、ねっ」
そんな意味ありげな言葉を残しながら、真理江は背を向けた。それとともに、他の部員たちも、部長の行動にならう。
「あ、あの……、ありがとう……ございます」
若干、言葉に引っかかりを感じたものの、それでも、裕太はお礼の言葉を発する。もちろん、これだけのことをしてもらった上に、相手は先輩なのだから、それは当然のことだった。
「どういたしまして」
背を向けたまま、そう返した真理江。だが、裕太がもし、正面から少女の顔を見ていれば、その表情には、純粋な親切心以外の思惑が表れていることに、気づけたかもしれない。
「あの……、それから……」
「なぁに?」
「このこと……、あの……、他の人には……内緒にして欲しいんですけど……」
「このこと……? あぁ、おもらししちゃったこと?」
ズバリと言われてしまったことに、ふたたび赤面せざるを得ない裕太。だが、これはどうしても譲れない点だった。
「は、はい……。あの……、なんとか……、その……、お願いします……」
それは、もはや懇願だった。だが、そんな裕太の声を背に聞きながら、真理江はクスリと笑ったことがわかる。
「大丈夫よ。君が学校でおもらししちゃったこと、誰にも言わないから……、ねっ、みんな?」
他の部員から賛同の声があがったことに、裕太は少しホッとすることができた。だが、次の言葉が、ふたたび気持ちに影を落とした。
「でも、その代わりに……」
「……?」
「その代わりに、家庭科部に入部して欲しいの」
「えっ?」
「家庭科部って、別に『女子』家庭科部ってわけじゃないんだけど、男子部員がいないのよ。だから、これもなにかの縁。家庭科部に入部して……、ねっ?」
「で、でも……」
「えー、これだけのことをしてあげたのよ。それに、黙っていてあげるって言ってるのに、私たちのお願い、聞いてくれないの?」
「…………」
「どうしようかなぁ。入ってくれたら、私たちの仲間、おんなじ家庭科部員なんだから、一生懸命守ってあげるけど、そうじゃなかったら、そこまでの義理はないのかなぁ……?」
その言葉に、裕太は思わず答えてしまった。もちろん、躊躇する気持ちは多分にあった。だが、もはや自分には選択権はないのだということを、心のどこかで感じながら。
「わ、わかりました。入ります……。家庭科部に入部します……」
「うふ、家庭科部へようこそ。歓迎するわ……、えっと……」
「佐々木です。一年三組の佐々木裕太です」
「そうか、裕太くんかぁ。これから、よろしくね。裕太くん」
周囲からも、異口同音の歓迎の言葉を受けながら、裕太は半分諦めの心境だった。自分が家庭科部に入ったなどと知ったら、友達やクラスメイトたちは、どう思うだろうか。
そのことに思いをはせ、暗い気持ちになる裕太。だが、実際にはそんなものでは済まないということを、そして、想像を絶する恥辱と屈辱に包まれた学校生活になることを、この時の彼はまだ知るよしもなかった。